尚後哲を俟つ

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越境し、融合しあう人文社会科学ー佐々木和貴編『文化現象としての近代ー吉村伸夫遺稿集ー』ー①

今回、ご紹介するのは、佐々木和貴編『文化現象としての近代ー吉村伸夫遺稿集ー』である。

文化現象としての近代―吉村伸夫遺稿集

文化現象としての近代―吉村伸夫遺稿集

 

この本は、英文学者・吉村伸夫の遺稿集である。 吉村伸夫は1947年生まれ。同志社大学文学部英文学科を卒業後、同大学文学研究科英文学専攻修士課程を修了。夙川学院短期大学英文科の講師を経て、鳥取大学教養部講師、教育学部教授、地域学部教授を勤めた。2014年没。編者となった佐々木和貴も英文学者であり、秋田大学教育文化学部教授である。

正直、一般的にはドマイナーな本である。大きなくくりとしては英文学に分類される本なので、西洋史学プロパー(しかも、イングランド専門ではない)の僕からするとなかなか手に取り辛い本である。

では、なんでそのような本を紹介するに至ったか。その理由は、吉村が鳥取大学地域学部の教授だったことによる。僕の出身地は、鳥取県鳥取市だ。友人には、地元の鳥取大学に行く人がそれなりに多かったわけだが、そのなかで、地域学部に進学した友人が次のように話していた。

「地域学部の講義のなかで一番面白いと思うのは吉村先生の講義だ。あの先生は知識の塊のような人だ」。

「知識の塊」というように他人に思わせることって、大学教授といえども、そう簡単ではないのではないか。もちろん、専門分野に関する、深い知識、そして研究力がなければ大学教授にはなれない。しかし、数々の大学教授に講義や、ゼミを受けてきた僕としても、「知識の塊」という印象を受けた教授はあまりいない(自分のことを棚に上げた妄言をゆるされよ)。そもそも、専門分野への知識を垣間見るだけでは、そのような印象にはなり得ない。臆断の域を出ないが、様々な分野に通暁している人物に対して初めて、そのような印象を持つに至るのではないか。そんな印象を抱かせる吉村とは、どんな人なのだろう…ふとそんなことを思ったが、深く調べる気はおきなかった。

大学2年次のゴールデンウィーク中に帰省した際、その友人に誘われて、鳥取大学の講義は潜って聴講したことがある。しかし、吉村は既に鳥取大学を退官しており、謦咳に接することはかなわなかった。その時、友人から大学図書館を除籍になった吉村著の『マーヴェル詩集』という本を渡され、価値がわからなかった当時の僕は「なぜこんな本を突然渡すのか…」と辟易した思い出がある。

マーヴェル詩集―英語詩全訳

マーヴェル詩集―英語詩全訳

 

時は流れて、僕は西洋史を学び、大学院に進学した。大学院では、鳥取大学で昔教えていたという教授がいらっしゃった。吉村のことも知っているという。昔湖山池を一緒にボートを漕いで渡ったもんだよ、と話してくださった。そう話して、すぐに思った。そうだ、その吉村伸夫という学者は今何をしているのだろう…とネット検索をかけてみた。すると、吉村のホームページが出てきた。しかし、3年前に既に永眠した、と、トップページには出ていた。大学院の教授も、永眠されたことは知らなかったようだ。非常にびっくりした。

もっと調べると、遺稿集まで出ているそうではないか。いささか専門性は高そうだが、友人をして「知識の塊」と言わしめた、その文章に触れてみたい。そう思い、購入して読んでみた。以上が、この本を紹介するに至った顛末だ。ヨーロッパ(特にイングランド)に関する本だが、僕のなかでは、どちらかというと郷土本に属する種類の本でもある。

前置きが長くなった。では、この本と吉村の研究の紹介をしていこう。そして、何分この本の記述範囲が広いし門外漢ではあるが、少しばかり僕が考えたことも書いてみたい。

本書は、吉村の論文や発表をまとめたものになっている。吉村の文章を読むと、カバーしている分野が非常に広い。英文学から政治哲学、社会学文化人類学、そしてビッグ・ヒストリーまで。本当に英文学者なのか? と思わされる。なんで英文学者の論文で、ポランニーだの、ハーバーマスだの、キムリッカだの、ヌスバウムだの、テイラーだの、ニ―バーだの出てくるのだろう。もとの吉村の専門は、17世紀イングランドの詩人であるアンドルー・マーヴェルであるはずだが、なぜここまで広まったのだろう。2013年に鳥取大学で行われた最終講義の「ホモ・サピエンスとしての自分を考える」中にある、吉村の言を引こう。

研究者としての僕は、我ながら病的と言わざるを得ないほど、一貫して学際的であり続けてきました。その学際的関心の対象は、思想・哲学・歴史・神学といった人文系だけでなく、先ほど言及したマーヴェルが国会議員だったことに関わりがあるのですが、政治一般や法律関連の事柄、制度史なども、最初から専門の一部とみなしてきました。そうなると、当然ながら社会系の学問領域一般も専門的関心の対象ですし、事情があって大学は文系に進みましたが、知的素質から言えばまちがいなくいわゆる理系なので、自然系の学問領域にも強い関心を抱いてきました。(p.130)

こんな風に言う専門的研究者は、私は寡聞にして吉村の他に知らない。しかし、それほどまでに吉村の関心は広い。

 吉村の専門であるアンドルー・マーヴェルは、その前半生で抒情詩を書いている。このロマンティックな詩によって、マーヴェルは、いわゆる17世紀イングランドの「形而上派詩人」の1人に目される。しかし、その後半生に下院議員となったマーヴェルは、ピューリタン革命期の王政復古の時代のなか、反宮廷・反カトリックとして、政治的世界に身を投じていく。そして、ロマンティックな色彩は一切ない、政治諷刺詩や論争散文、さらには議会報告等の書簡ばかりを書いていくようになる。英文学研究者は前半生の抒情詩には興味を持つが、後半生の世俗的・政治的な作品にはあまり手をつけない。「文学的価値がない」という理由からだそうだ。そして抒情詩ばかりを読んで、「マーヴェルは謎だ」などと言う。

吉村は、そのような状況に真っ向から異を唱える。後半生の世俗的・政治的な作品を知らずして、マーヴェルの全体像が知れようか、と。しかし、後半生の作品を理解しようと思うと、文学研究の範囲内ではそもそも読みこなすことが難しい。作品が置かれている「社会的文脈」、すなわち当時の政治制度や社会慣習にに知悉することが求められるからだ。しかし、吉村は、文学研究者以外の歴史学研究者、政治史研究者等の助けを借りながら、マーヴェルの全体像の研究を行い、『マーヴェル書簡集』、『リハーサル』散文版の翻訳を行った。

マーヴェル書簡集―王政復古時代イングランドへの窓として

マーヴェル書簡集―王政復古時代イングランドへの窓として

 
「リハーサル」散文版 (アンドルー・マーヴェル散文作品)

「リハーサル」散文版 (アンドルー・マーヴェル散文作品)

 

吉村は、これらの研究を通し、次のような考えを持つに至る。 

「視界を切り開く」作業は、特定のテクストの理解のために、いわゆる文学的解明を行うのみならず、広義の歴史学で扱う種々の資料や研究文献をも読み重ね、思索することに他ならない。このような過程を通じて得られた知識と理解は、テクストのいわば局地的疑問をきっかけとしているには違いないが、結果的には、そのテクストを生み受け入れた社会の全体像についての知識と理解という性格も、作業の性質上、濃厚に備えている。(「文学者にとっての王政復古時代イングランドを考える」p.33)

私自身、歴史学を少しばかりかじった身として、吉村の言いたいことが理解できる(ような気がする)。哲学研究や文学研究の著作や論文等を読んでいると、どうしてもテクストの外の社会的文脈に目を向けることが、ないとは言わないが少ないような気がする。

とはいえ、文学と社会の関係についての研究はいくらでもあるだろうが、私は不勉強のため、それを語れるほどの知識を持ち合わせていない。ただ、吉村の議論を聞いていて、少しばかり思い出したのが、グラフトンの「インテレクチュアル・ヒストリー」の議論だ。数年前、グラフトンの『テクストの擁護者たち』という著作が紹介され、話題になった。

テクストの擁護者たち: 近代ヨーロッパにおける人文学の誕生 (bibliotheca hermetica 叢書)

テクストの擁護者たち: 近代ヨーロッパにおける人文学の誕生 (bibliotheca hermetica 叢書)

 

 この著作のなかでは、ルネサンス期~近代ヨーロッパにおいて、ホメロス叙事詩や聖書などなど、権威ある「古典」と目されるものがいかに「古典」と目されるに至ったかを解き明かしている。いわばテクストの「読み方」の歴史であり、テクスト(古典)とコンテクスト(社会的文脈)の相互影響関係を論じた著作である。インテレクチュアル・ヒストリーには定まった方法論はないようだが、最大公約数的な意味を言うならば、テクストを教訓的に不変にして普遍のものとして読むのではなく、歴史主義的に、時代によって制約を受けたものとして読み、精神史・思想史(あるいは文学史も)を論じていくということになろうか。

近代政治思想史家のスキナーの以下の本も、インテレクチュアル・ヒストリーを考える上で非常に示唆的なようだ。読んでみたい。

思想史とはなにか―意味とコンテクスト (SELECTION21)

思想史とはなにか―意味とコンテクスト (SELECTION21)

 

さて、吉村の方法論がインテレクチュアル・ヒストリーに分類されるかはともかく、吉村はこのマーヴェルの全体像を追い求めた経験を基礎に、英文学研究にとどまらず、17世紀イングランドの社会全体、そして「近代市民社会」とはなんだったのか、という謎に、人文社会科学の諸学問を越境しながら、取り組んでいくことになる。

例えば、本書における表題論文である「文化現象としての近代」においては、17-18世紀のイングランド社会がまさにエリアスの言うところの「文明化」の真っ只中にあったことが、17世紀散文の文体の混乱・次の18世紀散文における規範の出現と、シティズンたる要件であるcivility概念の当時における暗中模索から説明される。ハーバーマスの言うところの「公共圏」での議論が可能になったのは、各人がcivilityを持ち、お互いのプライバシーに踏み込まないことを前提としたことによる、という。私は、まだまだエリアスも、ハーバーマスも十分に読み込めていない。ドイツ近代国家を論じるエスライヒの「規律化」論も含めて、近世から近代への移行過程を知るべく、まとめてきちんと勉強したい。しかし、英文学者として当時の散文を「道具」にしつつ、社会学の知見のなかに落とし込むのは、まさに学際的だ。

文明化の過程・上 〈改装版〉: ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

文明化の過程・上 〈改装版〉: ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

近代国家の覚醒―新ストア主義・身分制・ポリツァイ

近代国家の覚醒―新ストア主義・身分制・ポリツァイ

 

 本書のなかでは、「アルカディアに佇む市民としてのマーヴェル」という論文もまた示唆的だ。吉村によると、政治哲学者テイラーが『自我の源泉』で提唱したdisengagement(吉村訳:切り離し)の概念を援用すると、マーヴェルの抒情詩は、科学者ボイル、哲学者ロックの仕事と同列に「近代市民社会の文化」として語ることができるという。

自我の源泉―近代的アイデンティティの形成―

自我の源泉―近代的アイデンティティの形成―

すなわち、近代以前の社会においては、神が世界を作った「コスモス」という世界観だったのに対し、近代以降では世界は科学的に捉えられうる「ユニヴァース」となる。「コスモス」の世界観においては、人間主体=自己もその一部であり、世界全体たる「マクロコスモス」に対応する「ミクロコスモス」である。しかし、「コスモス」とは違い「ユニヴァース」は人間主体=自己はもはやその一部ではないため、客体化される。同時に、「ミクロコスモス」ではなくなった人間主体=自己も客体化される。これがテイラーの言うところの「切り離し」である。ロックの自己像もまさにそれであり、自己はコスモスの一部ではなく、快楽原則に則った「感情」と、世界を観察・分析する「理性」によって世界像・自己像を作り上げていく、拡張しない「点としての自己」である。ボイルについては吉村はほとんど触れていないが、吉村も引いているシェイピンの次の著作は参照しなければならないだろう。

リヴァイアサンと空気ポンプ―ホッブズ、ボイル、実験的生活―

リヴァイアサンと空気ポンプ―ホッブズ、ボイル、実験的生活―

 

さて、ロックやボイルの仕事と同じく、「コスモス」から「ユニヴァース」への変化、「切り離し」の概念が発生する文脈に、マーヴェルの"The Coronet"(花冠)という詩を位置付けることができるのだという。この詩の話者(詩人)は、「宮廷的世界」に生きていた詩人であるが、信仰に目覚めて過去を反省し、キリストを讃える詩を編もうとする。そして、その詩は、キリストの痛々しい棘の冠を掛けかえるために編む、と話者は考える。しかし、そのなかには、蛇が編み込まれてしまった。結局、キリストへの純真素朴の境地には至れず、不純物が混じってしまったのだ。そして、キリストに、いっそこれなら花冠ごと踏みつぶして欲しい(=詩を捨てる)、と願うわけである。

この詩を編んだころのマーヴェルは、いわば「コスモス」、ないし「理想郷」=「アルカディア」であるフェアファクス卿の所領アップルトンで抒情詩を書いていたと思われる。しかし、そこを離れ、いわば「ユニヴァース」であるロンドンの政治的な世界に、彼は飛び出していくことになる。この詩の話者は、いわばマーヴェルの自己投影であるが、詩人が詩を捨てたように、マーヴェルは抒情詩を捨てることで、「コスモス」を捨て「ユニヴァース」に「市民」として飛び込む決意をした、と吉村は解釈する。

ロンドンに行って以降のマーヴェルは、他の散文家と違い、異様なまでに、非常に多種多様な文体を駆使した。この事実を吉村は、「主体である自己が過剰に客体化され、観察・操作の対象になっている」ことの反映であると捉える。これこそテイラーのいうところの「切り離し」である。そしてそういった「切り離し」を経て、マーヴェルは「アルカディア」たるアップルトンを棄て、近代市民社会の「市民」となったのだ、と吉村は解釈する。先ほどの「文化現象としての近代」論文と同じく、人文科学たる英文学と社会科学たる政治哲学を越境した、総合的で、非常に読み応えのある論文である。

大学院で勉強をしていると、やはり専門である〇〇学を深めていく方向になるため、他の学問の成果を摂取することはそれほど簡単ではない。安易に飛びついて援用しても、痛い目を見ることはたくさんあるからだ。しかし、それでも、〇〇学のなかに固執して考え続けるのはどうなのか、と思ってきた。吉村の所論の数々を読み、総合的に何かを理解するためには学問の垣根を超えなくてはならない、ということを痛感させられた。もちろん、言うは易し、なのだが。しかし、「学際化」と称して様々なシンポジウムが開かれているが、他専攻同士による、共同研究の域を出ないものも多いのではないか?学際化の時代のなか、「自分のなかに」学際性を幅広く持とうとし、人文社会科学の海をわたる吉村の姿勢には、学ぶべきものはたくさんあるのではないか。そんなことを考えた。

吉村の視野はマーヴェルを超えて近代市民社会全般に移り、そして最終的には人間存在そのものへと移る。そして、2013年の最終講義「ホモ・サピエンスとしての自分を考える」が行われることになる。続きは稿を改めて書くことにしよう。